えぇ、怖い!コロナも怖いのに、変わらないと死ぬの!?死にたいくないよ!と思うようなタイトルつけてしまってすみません。

マスクもだいぶ当たり前になり、熱中症とマスクと水分補給の相性が非常に悪く、システムというのは結果論だなぁと思い知らされることが多い今日この頃です。

回数は減ったけど、文章を書くことにすごく慣れてきて、まだまだ下手くそだけど、自分の脳味噌からの出力と手で書いていくスピードがちょっと近づいてきた感じ。

でもまだまだです。もう息するように文章を書けるようになりたい。そのためにはいっぱい吸収し、文章以外でも表現しないといけない。10年経ったらすごい価値になるように、そして子供が大きくなったら、見てもらって、なんじゃこいつ。と思って、いつか分かってもらえたらいいなと思う次第です。伊丹谷です。ご機嫌いかがですか?

変わるということ

基本的に、人は変化を望んでいます。何かを変えたいか?という問いに関して、「変えたい!」と思う人は、今の世の中、だいぶ過半数に近づいてきているのではないでしょうか。俺の周りに関していえば、クリエーターや経営者、特定の層に関しては、ほぼ「変えたい」と答えると思います。

では、「自分が変わりたいと思うか」という問いに関してはどうでしょう。

英語で言うと、たった一単語あるかどうかです。

Who wants change?

変化を望むものは誰?

Who wants “to” change?

変わりたい人は誰?

変化(へんか・Change)、当たり前の言葉のように使っていますが、大小あります。

俺は変化がどちらかと言うと好きです。むしろ変わらないのならまだしも、変えられないことが本当に嫌で、いろんなことを変化させてきました。

仕事も多分職歴やバイトの種類は多いと思います。その時々で付き合う人たちが変わる(増える)ことも受け入れます。

知らないことに対する好奇心が強いです。が、故に人に干渉しすぎることが多く、今はあまり人に変化を「求める」ようなことはしなくなりました。個人的には、寂しいなと思う一方で、結局他人は変えることができないので、要は自分で変わることしかできないのです。

では、自分が絶えず変化していくことで、いい意味での波及が他人にもあればいいなと思うようになりました。

これも大きな変化ですよね。

現状コロナ禍で起きている変化

意識に支配されるって怖いよね

変化というべきなのか、変容というべきなのか。コロナに対する世間の反応は思うところが多々ありますが、ここでは言及しません。

コロナに限らず、過去はいろいろな革命や生活様式の変化が起きてきて、日本では近代化、戦争、高度成長、災害(地震・気象など)と馴染みの多いものもあるのではないでしょうか。

今回は、あまりにも大きい変化が訪れた。しかも完全不可抗力(ということにしましょうね)

社会を形成している根底から、それがまるで絶対的な悪であるように、変化してしまった。

マスクをして表情が見えず、会いたい人にも会いに帰省ができない。

村八分のようなことがSNSで散見される。心が荒みます。

何が変わったのか。これ、結局人間の変化なんですよね。コロナが変えたということができるかもしれませんが、それに対応して変わったのは人間の方なので。

だけど、皆さんは自覚しているのでしょうか。

もっと言えば、周りに扇動されて変化してしまっていることにも気づかない人も多いかもしれません。通常に会社に行ってお給料をもらって夏休みを満喫することは悪いことではないけど、なかなか変化してしまっていることに気づきにくい状態になってしまいます。

ホメオスタシス(恒常性=元に戻そうという感覚)や、正常性バイアス(=自分に限っては大丈夫という感情)が人間本来備わっているので、考えて変化する人ばかりだと、変化について来れない人は多くなりすぎて今より混乱を生んでしまうかもしれません。

個人的に取り組んでいる変化

慣れれば怖くない?

自分の例で言うと、コロナに始まったことではなく、ずっと自分の人生設計に関して考えていました。そしてここ数ヶ月で大きな環境変化をいくつか実行。想定していた寄り道は険しく、今まで以上に、人に対する考え方、自分に対する考え方、仕事に対する考え方、お金に関する考え方、大きく変えないといけない局面に陥りました。

別に何かあったわけでもなく、タイミング的に今だったと言うだけで、振り返ってみると特に自分の言動に変化が大きくあります。変わらなきゃと思ったのは特に、自分は自分の意識に支配されすぎていると言う点でした。

どういうことかと言うと、「〜でなければならない」「〜してはいけない」と物事を断定的に、それなりに自分の経験則で意思決定し、生きてきたつもりなのですが、結局は自分がどんどん窮屈になり、何もできなくなってしまった。自分の中で迷路のような意識を作り、自由がどんどん無くなっていきました。

これは誰のせいでも環境のせいでもなく、自分の肉体とは切り離された、自分の意識のせいです。

まず、「時間を無駄にしてはいけない」と予定ややることを詰め込みます。「毎日充実していないといけない」と1日単位での達成感を求めます。ここに決定的な根拠はなく、ただなんとなくと言う意識に支配されていた結果だと思います。

そこで、「〜ってのもあっていいんじゃないかな?」「失敗してみよう」「徹底的に誰かを頼ってみよう」と意識に支配されないように、自分の意識の変化に取り組んでいます。(現在進行形)

そもそも、会社って必要?とか、学校っていく意味ある?とか思うことって、社会は環境(自然含む)の変化を前提としていないことが多く、約束された制度に支配される(こうあれば安心という絶対的信頼を盲信する)結果、少しずつ人が気付いた結果、そういう意見が出てきたんだと思います。

特に、飢餓や生命を脅かす困窮を克服した(例外はあるけど)、現代人において、その根底の「生命維持欲求」から脅かされるように思い込んでしまっているコロナ禍で、テレワークや新しい生活様式を初め、この数ヶ月で10年くらいかけて変わっていくことがすごいスピードで変わってしまった。

今はフェイスシールドやマスク、うがい薬、アクリルの衝立、色々見ていてもすごく滑稽な状況ではあるけれども、そこでもシステムをアップデートさせていこうと取り組む方々の、変化させていこうという行動は頭が下がる思いだ。

これからどうなっていこう

道は険しい

不謹慎かもしれないが、この中で自分は変化を楽しめるようになってきたので、不安もモリモリ、お金もないし、老後も心配だけど、本当に大切なことが見つけやすくなってきたように思う。

囚われてはいけないのは、世の中のシステム、仕組みは結果論で作られたものだ。その仕組みの外れない歯車となるのか、場所を変えて、大小問わずいろんな歯車を回すのかは自分次第だ。

日本国民である以上、自分の代わりにそのシステムを構築してくれる人は、選挙によって選ぶことができる。声をあげるより、体感してもっと変化の中に身を置けて、そして少ないながらも自分の周りの人たちでそれを支えていけるような仕組みが、世間の仕組みの歯車の中で作れればと思う。

有史以来、生き方は多様化し、便利になったにも関わらず、労働時間は人類史上最も長くなってしまった。飢えは克服できて、幸福度でいえば過去最高の水準になっても人は幸せになれない。

本当に幸せなことや環境は人それぞれだけど、画一的なシステムが、特に若者を中心に生きづらく閉塞感をもたらす。彼らも変化をしていければきっと自分たちで環境を作っていけると信じて、大変だと思うけど、変化をして行って欲しい。

や、高尚なこと言うつもりはなく、変化しようとゴールを設定して、駅まで徒歩5分くらいに感じることでも、実際はとんでもないいばら道なんだよね。だから、スタートは早いほうがいい。そう言う意味では、残りの人生を多く残された若い人たち、特に自分の子供たちの未来は、変化を受容できるシステムであって欲しいと、このコロナ禍を経た結果論でできるシステムに期待する。

みんなでコンフォートゾーンからジャンプしよう!それが人生だ!

そしてその一端を担えるようにこれからも頑張ろうと思う。っておい、なんか所信表明みたいになったな。

まだまだ文章下手だ。

読んでいただいてありがとうございます。